同様の円環は中田日菜子の画面にも認められる。軸装された《蚕図》は、桑の葉をむさぼる蚕の姿を描いた脇に、蚕の成長過程、繭、そして交尾する蚕蛾へと至る変態のプロセスが図示されているのだが、興味深いのは、この絵が絹布を支持体としていることだ。描かれる題材に由来する支持体のうえに画面が成り立っているわけであり、これによって支持体の組成とイメージとが渦を巻くようにして循環することになるのである。
生きものをモティーフとするのは、写生を重んずる日本画の常套的発想であるものの、中田の場合、ある種の過剰さにおいて特筆にあたいする。まず、踏み込んだ描写のもたらす画面の強度が挙げられるが、この強度は視覚像の再現という域を超えて、題材にそなわる装飾的な次元を際立たせている。たとえば青大将を描いた横長の《はこ》では、顔料と絹のテクスチャーが相俟って蛇の鱗の冷ややかな輝きが目を捉える。
装飾性は、画面の造作によっても強化されている。頭部につづく蛇体が画面上辺に沿って直線を成すことで、再現表象を超える次元をもたらしているのである。この直線は画面を囲む額縁[パレルゴン]の一辺をトレースすることで、外的な規矩を画面に招き入れ、そうすることで装飾性に通ずる構成的秩序感をもたらしている。それはまた、額縁[パレルゴン]を介して、イメージを事物的な関係態へと転位することでもある。
このような発想は、描き表装において端的に示されている。イメージの場である画面と、それを画する表具[パレルゴン]とを、描く行為によって接続することで画面のイメージ性を現実へと滲出させているのである。これは、表装という装飾的次元を画面に導入しつつ、画面を表装へと取り込む相互浸透の企てとみるべきだろう。
中田は、自分が描く蛇や蚕などを自室で飼育しているという。題材として花鳥を育むことは日本画家には珍しくないとはいえ、自室で蛇や蚕を飼うというのは決して一般的ではあるまい。ここにも中田の過剰さがある。彼女は「虫愛づる姫君」なのだ。